ふとした瞬間に、宝くじの当選番号を夢想している自分に気づく。ロト7で高額当選し、この工場から、そして彼から「FIRE」してしまえたらどれほど救われるだろうか。そんな非現実的な逃避行に思いを馳せずにはいられないほど、私の毎日は「〇ナシ君」という得体の知れない存在に翻弄されている。

彼とコンビを組むようになって、もう3年。私が入社したときには既にいた彼は、年齢こそ10歳ほど下だが、いわゆる「年下先輩」にあたる。現在30歳前後。最初のうちはそれほど接点もなかったのだが、3年前の相次ぐトラブルがきっかけで、運命のいたずらか、私と彼は二人三脚で現場を回すことになった。

その日から今日まで、私は何度「度肝を抜かれた」ことだろう。

1. メルトダウンの残り火

我々の仕事は、常に「熱」との戦いだ。扱う設備は巨大なエネルギーを内包しており、一歩間違えれば、この建屋ごと塵にするほどの破壊力を秘めている。そんな「神の火」を扱う自覚が、彼には決定的に欠けていたらしい。

今でも語り草になっている伝説がある。ある日、彼は装置を「フルパワー」で稼働させたまま、何を思ったか持ち場を離れ、お散歩に出かけてしまったのだ。主婦が鍋の火を消し忘れて買い物に行くのとは、次元が違う。爆弾の導火線に火をつけたまま、昼寝をしに行くようなものだ。

異常を察知した熟練の上司が駆けつけたとき、そこには地獄のような光景が広がっていたという。装置は過熱の限界を超えてメルトダウンを始め、周囲には見たこともないような、恐ろしくも神々しい「後光」が射していたそうだ。その凄まじい光景は、熟練工である上司の精神を深く抉り、しばらくの間、彼の夢にまで現れたという。

当の〇ナシ君はといえば、事態が収束した頃、のんびりと片手にジュースを持って戻ってきたらしい。「まさか、そんな大事になるとは思わなかった」という顔で。その日から、上層部から「〇ナシからは絶対に目を離すな」という、不名誉きわまりない特命が下った。そして、その「目」の役割が、今、私に回ってきている。

2. 「二桁」の壁と自尊心の境界線

彼の驚異的な部分は、危機管理能力の欠如だけではない。基礎的な知的能力、とりわけ「計算」において、彼は私の理解を超えていた。

1桁の足し算はできる。だが、2桁になった途端、彼の思考回路は沈黙する。義務教育の期間、彼は一体何を見て、何を学んでいたのだろうか。いや、計算ができないこと自体は、文明の利器(電卓)があれば解決するはずだった。

一番の問題は、彼が「できないことを隠し、誤魔化す」ことにある。

例えば、こちらが算出した数値を伝えると、彼はしばらく沈黙した後、いかにも理解した風を装って「わかりました。それで進めておきます」と答える。私は彼が内気な性格ゆえに、言葉を選ぶ時間がかかっているのだと思い、作業を任せてみた。

しかし、待っていたのは絶望的な結果だった。彼は見当違いな調整を延々と繰り返し、当然のように失敗する。そして無機質に「間違いました」とだけ繰り返す。

話し合いを重ねてようやく判明したのは、彼が「2桁の足し算ができない」だけでなく、「そもそも何と何を足せば答えが出るのか」という論理構造すら理解できていないという事実だった。電卓を渡しても、打ち込むべき数式が分からないのだから、無用の長物でしかない。

「〇ナシ君、足し算できるか?」

その一言が喉まで出かかったが、飲み込んだ。それを口にすれば自尊心を傷つけるだろうし、今の時代、下手をすればハラスメントだと言われかねない。結局、私は「計算はこっちでやるから、君はやらなくていい」と告げることにした。

彼はただ一言、「はい」とだけ答えた。

これで一件落着。そう自分に言い聞かせるしかない。私の仕事は、彼の分まで算数をすることに決まった。

3. 聖域としてのトイレ

そして最近、彼が身につけた最強のスキルが「逃避」である。

自分に解決できない問題が起きたり、決断を迫られたり、あるいは単に苦手な作業が回ってきたりすると、彼は決まって魔法の言葉を唱える。

「すいません、トイレ行ってきます」

そうなると、もう帰ってこない。20分、あるいはそれ以上。

彼が「聖域」に籠もっている間に、現場のトラブルや面倒な作業は、すべて私が片付けることになる。彼がスッキリとした顔で戦線に復帰する頃には、嵐は過ぎ去っているのだ。

上司は「できないならできないとはっきり言え! あれじゃ使い物にならない!」と嘆いているが、私はもう、怒る気力すら湧かない。「おれの知ったことじゃない」……それが、3年という月日が私に授けた、唯一の防衛本能だ。

終わりに

今日も、河津桜が咲き始めている。

春の陽光を浴びて淡いピンク色に染まる我が家の桜を眺めていると、殺伐とした工場の風景が嘘のように思えてくる。

〇ナシ君と過ごす毎日は、ある種の修行のようでもある。彼の非常識に触れるたび、私の常識が削り取られていく。もし、本当にロト7が当たったら。私は彼に「さよなら」すら言わずに、この場所を去るだろう。

でも、明日もまた、私は工場の電源をチェックし、彼の代わりに二桁の計算をし、トイレから戻るのを待つのだろう。

満開に近い河津桜を眺めながら、私は深くため息をつき、明日の仕事に備えて眠りにつくことにする。