会社の上階へと続く階段は、いつだって気が重い。その先にある電気室は、普段は誰も立ち入らない、忘れ去られたような場所だ。空調の届かない室内は、モワッと暖かく気持ち悪い。空気は埃で白くよどんでいて、吸い込むだけで肺がザラつくような不快感がある。重苦しい沈黙と、変圧器が発するかすかな低周波の唸り音だけが支配するその空間に、長居しようなどと思う人間は普通いない。

私も、用事がなければ絶対に近づきたくはない場所だった。だからこそ、あの場所に入った瞬間、目の前の光景が信じられなくて、心臓が跳ね上がった。

そこに、人がいた。

それも、私の直属の上司だった。

当然、仕事のためにそこにいるわけではない。彼は暗がりのなか、壁に背を預けて耳にイヤホンを差し込んで熱心にスマートフォンをいじっていた。画面の薄青い光が、彼の無表情な顔を不気味に照らし出している。

私が不用意に点けてしまった電気に気づき、彼はハッとして顔を上げた。次の瞬間、焦ったようにイヤホンをサッと耳からむしり取り、気まずさを隠すように、ボソリと呟いた。

「……今日、暇すぎない?」

その声は、かつて仕事に対して真面目で、部下を引っ張っていた彼のものとは到底思えないほど、生気がなく、投げやりなものだった。

人がいるはずのない、埃っぽい暗がりに上司が隠れていたという異常なシチュエーション。そして、それ以上に、かつての面影を完全に失ってしまった彼の変わり果てた素行――。あまりの衝撃に、私の喉は完全に張り付いてしまった。声の一言も出ないまま、私はただ呆然と彼を見つめることしかできなかった。

数秒の沈黙の後、押し寄せてきたのは、言いようのない恐怖と嫌悪感だった。私は言葉を返す代わりに、回れ右をして、文字通りその場から飛び出し、逃げ出してしまった。早足の自分の足音が、やけに大きく響いていた。

持ち場に戻り、激しく波打つ鼓動をなだめながら、私はなぜ彼があんな場所にいたのかを考えていた。理由は、分かっている。分かっていて、考えたくなかったのだ。

すべては、昨年の一件から始まった。

あの時、彼は「TK課長」から受けていた執拗なモラハラに対して、ついに限界を迎えて激発した。社内を大きく巻き込むほどの大喧嘩に発展したのは、彼にとってそれが、人間としての尊厳を守るための命がけの告発だったからだ。飛び交う罵声、冷徹な精神的追い込み。彼はボロボロになりながらも、TK課長の不当な扱いを訴え、自分の言い分を認めてもらおうと必死に戦った。

しかし、会社という組織が下した決断は残酷だった。どれだけ被害を訴えようとも、結局のところ、彼の言い分は何一つとして認めてもらえなかったのだ。それどころか、組織は波風を立てた彼の方を問題視するかのような態度さえ見せた。完全に梯子を外され、孤立無援となった彼は、あの衝突を境に、心の中の何かが完全にポキリと折れてしまったのだろう。

モラハラに立ち向かった末の、あまりにも理不尽な敗北。それ以降、彼は急速に輝きを失っていった。そして今日、彼は誰も来ない、埃まみれの暗い電気室で時間を潰すという、随分と変な方向、歪んだ場所へと走り去ってしまった。かつての熱意やプライドの裏返しが、現在のあの哀れな姿なのだと思うと、胸の奥が締め付けられるような、泥を飲まされたような気分になる。

だけど、私に何ができるというのだろう。

彼を咎める権利もなければ、救い出す力もない。

決めた。

私は今日、あの電気室には行ってない!

上司のあんな姿は、一切見ていない!

彼がどんなに変わってしまおうとも、私は何も、全て知らなかったことにする。

それが、組織の理不尽に揉まれて壊れてしまった彼に対する、せめてもの情けであり、私自身がこの会社で生き残るための、唯一の防衛策なのだ。

明日からはまた、何事もなかったかのように、彼に業務の報告をしよう。あの暗闇のことは、綺麗さっぱり忘れて。