自分はつくづく、ポンコツだと思う。
すべての始まりは、一通のメールだった。画面に躍る「スペースX、上場」の文字。あのイーロン・マスクの宇宙企業が、ついに株式を公開するらしい。普段から新NISAでこつこつと投資をやっている身としては、その「IPO(新規公開株)の抽選」という響きに、どうしようもなく心が躍ってしまった。SFの世界が現実になるようなワクワク感に背中を押され、軽い気持ちで抽選に応募してみた。ここまでは、未来への希望に満ちた完璧なストーリーだった。
しかし、応募ボタンを押した直後、冷や水を浴びせられるような事実に気がついた。
「購入には、予定価格分の米ドルを事前に用意しておく必要があります」
……ドル? 円じゃなくて?
いわゆる「ドル転(日本円を米ドルに換替える作業)」が必要なのだ。もちろん、やったことなんて一度もない。
慌ててスマホでやり方を調べてみると、検索結果には心強い言葉が並んでいた。
『初心者でも簡単!10分、15分の手続きでドル転は完了します!』
なーんだ、そんなものか。それなら今すぐやってしまおう。そう高を括ってスタートした。しかし、これが長い長い「沼」への入り口だとは、この時の私は知る由もなかった。
まるで、世界中のすべてのシステムから嫌われているかのように、何ひとつスムーズにいかないのだ。
まずは証券口座にログインしようとする。しかし、画面が冷たく弾いてくる。
「ユーザーログインパスワードが違います」
ならばと、連携しているネットバンクのアプリを開く。こちらも同様。
「ログインパスワードを入力してください」
分からない。まったく分からない。
頭の中の記憶の引き出しをどれだけひっくり返しても、それらしき文字列が出てこないのだ。それならばと、お決まりの「取引パスワード」を入力してみるが、こちらも全滅。さっぱり上手くいかない。
画面を見つめたまま、私のイライラは最高潮に達していた。
そんな私のすぐ隣で、同じように異様な熱気を放っている存在がいた。息子だ。彼は彼で、タブレットのゲームが上手くいかないらしく、「あー!もう!なんでだよ!」と激しく怒り狂っている。
普段なら「落ち着きなさい」と言えるはずなのに、余裕のない私は、ついトゲのある言葉を投げつけてしまった。
「そんなに上手くいかないなら、もうやめてしまえ!」
言い放った瞬間、ブーメランのようにその言葉が自分に突き刺さる。
(……いや、待てよ。自分もこの子と大差ないじゃないか)
画面の向こうの電子の壁に阻まれて、髪をかきむしっている大人の私と、ゲームのステージがクリアできなくて怒っている子供の息子。やっていることの精神レベルは完全に同等だった。情けなさと苛立ちが混ざり合いながら、私は再びスマホと睨めっこを続けた。
そして、最悪の瞬間が訪れる。
「パスワードが違います。連続して間違えたため、アカウントがロックされました」
画面に表示された非情な宣告。ログインの舞台に立つことすら許されなくなった。絶望、という二文字が頭をよぎる。
時計を見ると、優に2時間は経過していた。
15分で終わるはずの作業に、なぜ私は貴重な夜の時間を2時間も捧げているのだろう。もうすべてを投げ出して、布団を頭から被ってふて寝してやろうかと本気で思った。スペースXも、イーロン・マスクも、ドルも、もうどうでもいい。
しかし、ここで諦めたら、あの「やめてしまえ!」という息子への暴言が、ただの理不尽な八つ当たりで終わってしまう。大人のプライドが、奇妙なところで火を吹いた。
そこからは、意地のパスワード再設定祭りだった。登録してあるメールアドレスを探し出し、秘密の質問に答え、認証コードを打ち込み、新しいパスワードをひねり出す。証券口座、ネットバンク、それぞれの手続きを一つずつ、絡まった糸を解くように執念でクリアしていった。
そしてついに、その瞬間は訪れた。
画面に表示された「ドル転が完了しました」の文字。
やっとの思いで、私は日本円をドルへと換えることに成功したのだった。達成感はある。しかしそれ以上に、どっと押し寄せてきたのは凄まじい疲労感だった。
ふと我に返る。静まり返った部屋。息子はとっくに怒り疲れて寝てしまった。
静寂の中、私はスマホの画面に映る米ドルの残高をぼんやりと見つめていた。
「一体自分は、この貴重な夜に何をしているんだろう……」
宇宙への投資を夢見た男が、自宅のリビングでパスワードと血みどろの戦いを繰り広げていた。何とも言えないおかしさと、情けなさが込み上げてくる。
とりあえず、明日の朝一番に、息子には「昨日は怒ってごめんね」と謝ろう。お父さんも、ゲームのパスワードがクリアできなくて怒っていただけなんだ、と。
そんなことを思いながら、私はようやく、深い眠りにつくために布団へと潜り込んだ。混沌として、だけどどこか愛おしい、そんな僕らの夜が終わる。