ものづくりの仕事に従事していると、ごく稀に、震えるほど「気持ちがいい」瞬間に立ち会うことがある。それは、長く険しい試行錯誤の果てに、突如として訪れる至福のひとときだ。

その時、頭の中にある膨大な知識と、長年の月日で培ってきた経験、そして指先に宿る繊細な感覚のすべてが、まるで複雑なパズルの最後のピースが埋まるように、一点の曇りもなく「バチッ」と噛み合う。指示書に描かれた狙い目に対し、寸分の狂いもなく、自分の技量が完璧にオーバーラップする感覚。それは狙い澄ました矢が、静寂の中で的の真ん中を射抜く感覚に近い。

こうした瞬間は、往々にして日常の淡々とした作業の中に潜んでいる。派手なプレゼンテーションの場でもなければ、華々しい表彰式の壇上でもない。それゆえに、この「完璧な仕事」を誰かが評価してくれるわけではない。同僚はいつものように自分の作業をこなし、機械の稼働音だけが工場内に響いている。

結局のところ、それはただの自己満足に過ぎないのだ。

しかし、その自己満足こそが、ものづくりに携わる人間にとっての何よりの報酬であり、魂の救いでもある。数値上の合格ラインを越えるだけでなく、自分という人間が納得できる極致にまで到達できたという事実は、「この仕事を続けてきて本当に良かった」という深い充足感をもたらしてくれる。その一瞬の輝きがあるからこそ、泥臭く、地道な日々の労働に耐えることができるのだ。

だが、現実は時に残酷だ。

心血を注ぎ、完璧に仕上げたその「傑作」が、次の工程へと送り出された直後のことだった。あろうことか、後続の工程で発生した予期せぬ不手際により、その製品は無残な傷を負い、あるいは変形し、製品としての体をなさなくなってしまった。

つい数分前まで、私の手の中で誇らしげに輝いていた完成品。世に出れば誰かの生活を支え、あるいは美しく機能したはずのその個体は、世間の陽の目を浴びることなく、冷たい「不良品」の文字が書かれたカゴの中へと放り込まれた。

一瞬にしてゴミへと成り下がったその姿を見て、胸に去来するのは虚脱感だ。私の最高のパフォーマンスも、練り上げた技術も、すべては無に帰した。カゴの中で他の失敗作と重なり合うそれを見て、私は言葉を失う。

それでも、と思う。

カゴの中の残骸を見つめながら、私は心のどこかで、あの「バチッ」とハマった瞬間の手の感触を反芻している。形としては残らなかった。誰の目にも触れなかった。けれど、あの完璧な手応えは、確かに私の右手に残っている。

評価されず、形にも残らず、ただ捨てられる運命だったとしても、あの瞬間を味わえたことがものづくりの残酷なまでの魅力なのだ。私は深くため息をつき、乱れた心を整える。そしてまた、次の「完璧」を追い求めるために、再び工具を手に取る。