入院生活の最終日、私は「油断」という名の大きな落とし穴に、真っ逆さまに突き落とされることになった。
今思い返しても、昨夜の出来事は悪夢のようだった。いや、夢であってほしかったと心から願う。私はこれまで、自分のことを「どこでも寝られる図太い人間」だと思い込んで生きてきた。しかし、その自信は一夜にして無残に打ち砕かれた。私は、自分が思っていたよりもずっと繊細で、環境の変化に脆い生き物だったのだ。
完璧だったはずの計画
日中、カーテン越しに新しい入院患者がやってきた気配を感じた。看護師さんとの受け答えを聞く限り、一泊二日の検査か何かだろうか、とてもハキハキとした、しっかりしてそうな方だった。
「よし、今夜が最後だ。」
私は自分に言い聞かせ、万全の態勢を整えた。夕飯を済ませ、入念に歯を磨き、身の回りを整理する。夜勤の看護師さんが「何か不安なことはありませんか?」と優しく声をかけてくれたが、私は「最終日なので大丈夫ですよ」と、余裕の笑みさえ浮かべて答えた。
心の中では、「これから全然大丈夫じゃなくなるのに」という皮肉な予感さえ持たずに。
夜9時の消灯。私はお気に入りの音楽を30分ほど聴いて心を落ち着かせた後、最終決戦に挑む兵士のように「完全装備」を固めた。アイマスクを装着し、耳栓を押し込み、マスクで喉を保護する。そして最後の一撃として、処方された睡眠薬を水で流し込んだ。
「次に目が覚める時は、朝の5時だ。そうすれば、この不自由な生活ともオサラバだ。」
そう確信して、私は意識を深い闇へと沈めた。
訪れた絶望と「道路工事」
どれくらい時間が経っただろうか。ひどく寝苦しい。意識が朦朧として、今が現実なのか夢の中なのか判然としない。
「これは夢だ。次に目を開けたら、きっと外は薄明るくなっているはずだ……。」
そう自分に言い聞かせて耐えていたが、ついに限界がきた。
慌てて時計を確認する。文字盤が示したのは、無情にも「0時半」。
嘘だ、と言いたかった。まだ3時間も経っていない。
混乱する頭で辺りを見渡すと、いつの間にか苦しさでマスクもアイマスクも剥ぎ取っていたらしい。そして、装備していたはずの耳栓を貫通して、凄まじい轟音が響き渡っていた。
ゴゴゴゴゴゴ……ガッ! ゴゴゴゴゴゴ……ガッ!
それはもはや人間の発する音ではなかった。まるで深夜の道路を掘削機で砕いているような、暴力的な騒音。あの「しっかりしてそう」だった新人の同室者は、恐るべき「いびきの怪獣」だったのだ。
同部屋の別の老人が、たまらずナースコールを連打している。
「これ、どうにかならねえのか!」
怒号と轟音、そして病院特有の排泄物の匂いが混じり合い、病室は一瞬にして地獄の様相を呈していた。
女神との出会い、そして誓い
その後、必死に眠ろうと努力したが、脳を揺さぶるような音を前にしては無力だった。吐き気さえ催し、私は逃げるようにナースステーションへ向かった。
「……椅子に座って、少し休ませてください。」
情けない声でそう告げた私を待っていたのは、幸運にも、以前から「早く退院できるといいですね」と親身になってくれていた、あの優しい看護師さんだった。
「この劣悪な環境で、本当によく頑張りましたね。」
その一言に、張り詰めていた糸が切れそうになった。彼女はまさに女神だった。すぐさま病室へ向かい、件の新人を起こして「他の方の眠りの妨げになっているので、向きを変えるなど配慮をお願いします」と、毅然とした、それでいて角の立たない態度で伝えてくれたのだ。
少しの間ナースステーションで過ごし、ようやく動悸が収まってきた。これ以上甘えてはいけない。私は気持ちを立て直し、再び戦場である病室へと戻った。もう眠ることは諦めた。ヘッドホンを深く被り、朝の光が差し込むのをじっと待つことに決めた。
最後に得た教訓
今回の入院で、私は自分自身の正体を知った。
「どこでも寝られる」「自分は鈍感だ」なんて、ただの傲慢だった。実際は、他人の立てる音に怯え、環境の変化に体調を崩す、えらく繊細で、弱っちい生き物だったのだ。
最終日に私を襲ったあの轟音は、健康を過信し、自分を理解していなかった私への「鉄槌」だったのかもしれない。
もう二度と、こんな「収容所」のような思いはしたくない。
カーテン一枚で仕切られた、自由のない、他人の生理現象に振り回される夜はこりごりだ。
私は誓う。
これからは何よりも自分の体を労わり、規則正しく、健やかに生きることを。
自分の布団で、自分の好きな枕で、誰にも邪魔されずに朝まで眠れること。
それがどれほど贅沢で、守るべき幸せであるかを、私は一生忘れないだろう。
さらば、眠れぬ夜。
私は明日、健康という名の自由を取り戻しにいく。
入院当日に娘から手渡された、毎日分のお手紙を抱きしめて朝を待つことにしよう。