仕事終わりの体に、スコップの重みがずっしりと食い込む。今日で一週間、私は毎日欠かさず裏山へと足を運んでいる。

「裏山」と言えば聞こえはいいが、実際には「山に登る」というほどの大層な高さではない。ほんの数十メートル、斜面を上がればそこが私の戦場だ。しかし、このわずかな高低差が、今の私にはあまりにも恨めしい。

竹林に足を踏み入れれば、地面からは容赦なく茶褐色の穂先が顔を覗かせている。放っておけばあっという間に成長し、手に負えない硬い竹になってしまう。だから、掘らなければならない。義務感に背中を押され、慣れた手つきでスコップを突き刺す。

土を割り、根元を断ち切り、ずっしりと重い筍を掘り起こす。ここまではいい。土の香りと達成感で、まだ心は折れていない。納得して作業を進めることができる。

しかし、問題はその先だ。掘り起こした筍を、山の下まで運ばなければならない。

筍という植物は、その瑞々しさが仇となる。皮に包まれた中身は、言わば「水の塊」だ。一本でもそれなりの重量があるというのに、それを十本も袋に詰め込めば、ズシリと肩に食い込む殺人的な重器へと変貌する。

足元の覚束ない斜面を、重たい袋を引きずるようにして下りる。膝が笑い、呼吸は荒くなる。仕事終わりの疲れ切った体に、この労働はあまりにも酷だ。ヘトヘトになりながら家に戻る頃には、全身の筋肉が悲鳴を上げている。

さらに、私の心を重くさせているのは、その「行き先」だ。

皮肉なことに、今の時期に採れる出始めの柔らかく一番美味しい筍は、我が家の食卓に並ぶことはない。これらはすべて、毎年心待ちにしている「貰い手」たちの元へと運ばれる。

「今年も楽しみにしてるわね」

「あなたの家の筍が一番美味しいから」

そんな言葉に背中を押され、私はせっせと配達に回る。近所の人、親戚、昔からの知人。袋に詰めた重たい「水の塊」を車に積み込み、一軒一軒配り歩く。

これが、昔ながらの農家の教えであり、美徳なのだという。良いものはまず他人に。自分たちが口にするのは、旬が過ぎ、少し育ちすぎて硬くなり始めた「お下がり」で十分だという考え方。

正直に言えば、納得がいかない部分もある。一番苦労して掘り、一番重い思いをして運んでいるのは私なのに。なぜ私は、自分が一番美味しいと感じる瞬間のものを、汗を流しながら他人に譲り続けなければならないのか。

旬の外れ、ようやく食卓に筍の煮物が並ぶ頃には、もう筍の顔なんて見たくもなくなっている。それが毎年の恒例行事だ。

そして今年、さらに追い打ちをかけるような災難に見舞われた。

竹藪の中で何かに触れたのだろうか。それとも何かの植物の粉でも浴びたのか。数日前から顔と首が激しくかぶれ、赤く腫れ上がってしまった。鏡を見るたびに憂鬱になり、ヒリヒリとした痛痒さが集中力を削いでいく。

体は疲れ果て、重い荷物に肩は凝り、顔はかぶれてボロボロ。

掘らなければ竹になり、山が荒れる。掘れば苦痛が待っている。

喜んでくれる人はいるが、自分に残るのは疲労感と、旬を過ぎた筍だけ。

「早く、筍の時期が終わってほしい」

夕闇が迫る竹林の中で、私はスコップを杖代わりに立ち尽くし、心からそう願った。この狂騒曲のような日々が過ぎ去り、穏やかな日常が戻ってくるのを、今はただ指折り数えて待っている。

明日もまた、仕事が終わればあの斜面へ向かわなければならない。

あと数日か、それとも一週間か。

この「水の塊」との戦いが終わるその日まで、私の春はまだ、溜息の中に閉じ込められたままだ。