今日、手術後の経過観察のために病院へ行ってきた。
春の柔らかな光が差し込む待合室は、相変わらず独特の消毒液の匂いと、どこか張り詰めた、それでいてひどく倦怠感のある空気が漂っている。診察室に呼ばれ、主治医と対面する。経過は極めて順調。傷口もきれいに塞がり、機能的にも何ら問題ないという太鼓判を押された。
「うん、バッチリだね。また何かあったらいつでもおいで!」
先生のその軽い、けれど確信に満ちた言葉に、ようやく心の底から重荷が降りた気がした。「完治」という二文字が、公式に僕の体へ刻まれた瞬間だった。晴れ晴れとした気分で診察室を後にし、会計を待つために再び待合室のベンチに腰を下ろした。
外科的な不安が消え、次は内科へ向かう。一応、大腸の検査も受けることになっているのだ。万全を期すためのステップだが、やはり病院のハシゴというのは、それだけで少しばかり気力が削られる。そんなことを考えながら、ぼんやりと周囲を眺めていた。
そこで、彼を見かけた。
僕より一回りほど若く見える、30代くらいの男性だった。身なりはいわゆる「イケイケ」な雰囲気で、自信に満ちたオーラを纏っている。そんな彼の手元を見て、僕は思わず息を呑んだ。
彼が持っていたのは、見覚えのあるあの厚み、あの質感の**「茶封筒」**だった。
それは僕が数ヶ月前、地獄への片道切符を受け取った時と全く同じ、入院手続きの書類一式が入った封筒だ。その瞬間、僕の中で過去の記憶がフラッシュバックした。あの封筒の重みは、単なる紙の重さではない。これから始まる「未知の痛み」と「羞恥心との戦い」の重みなのだ。
盗み聞きをするつもりはなかったが、彼の声はよく通り、静かな待合室に響いていた。彼は看護師さんに対しても、その「イケイケ」なノリを崩さない。
「あ〜、はいはい。大体わかりました〜」
「あー、そんな感じっすね。了解です〜」
軽口を叩きながら、余裕の表情で説明を聞いている。その姿を見て、僕は「かわいいもんだな……」と、どこか遠い目をしてしまった。かつての自分も、あんな風に虚勢を張っていただろうか。それとも、単に事の重大さに気づいていないだけなのか。
会話が進むにつれ、彼が笑いながらこんなことを言った。
「いや、本当は個室にしようかと思ったんスけどね。嫁さんに相談したら『個室代なんて払えるか!ふざけんな!』って一蹴されちゃいまして。ハハハ、怖いでしょ?」
その言葉を聞いた瞬間、僕の背中に冷たい戦慄が走った。ゾワリ、と産毛が逆立つ感覚。
「ああ、僕と同じ道を行く同士が、ここにも一人……」
僕は知っている。その選択が、数日後の彼にどのような結末をもたらすかを。大部屋という、逃げ場のない空間。カーテン一枚隔てた向こう側に他人の気配を感じながら、己の尊厳を賭けて戦う過酷な日々。
さらに、彼の質問が僕の確信を決定的なものにした。
「ところで、痔瘻(じろう)って1週間の入院ですか?」
完璧だ。入院日数も、僕の時と寸分違わない。1週間。それは、この世の終わりを凝縮したような、あまりにも濃密で、あまりにも「痛い」7日間だ。
僕の心の中の良心が、激しく叫んでいた。
「おい、そこのお兄さん! 悪いことは言わない、今すぐ看護師さんに『やっぱり個室でお願いします』って泣きつくんだ!」
「嫁さんを説得しろ! 土下座してでも、貯金を切り崩してでも個室を勝ち取れ! さもないと君は、術後のあの悶絶する夜に、隣のベッドのいびきと自分の悲鳴の板挟みになって、精神が崩壊するぞ!」
言いたい。喉元まで出かかった言葉を、僕は必死で飲み込んだ。
しかし、僕とお兄さんの間には、名前も知らない赤の他人という、あまりにも高い壁がある。診察を終え、完治のお墨付きをもらったばかりの男が、これから戦地へ向かおうとする若者に「尻の痛みを侮るな」と説教を垂れるなど、あまりにもシュールすぎる。
彼はまだ、何も知らない。
「イケイケ」な口調で看護師さんと笑い合っているが、術後の処置室で、彼は必ずやその勢いを失うだろう。看護師さんの前で、己の最もプライベートな部分を晒し、情けない声を漏らすことになるのだ。その時、個室という「最後の聖域」がないことが、どれほど残酷なことか。
結局、僕は何も言えなかった。
会計を済ませ、自動ドアを抜けて外に出る。5月の風は驚くほど爽やかで、空はどこまでも青い。この自由。この解放感。僕は「あちら側」から、ようやく「こちら側」に戻ってきたのだ。
これから内科へ移動し、大腸の検査という次の関門が待っている。
けれど、先ほどのお兄さんの「茶封筒」に比べれば、それはまだ静かな戦いだと思えた。
背後にある病院の建物を振り返る。あの窓の向こうで、彼は今もまだ、茶封筒を手に軽口を叩いているのだろうか。
「頑張れよ、同士……」
心の中でそう呟いた。彼がこれから経験する苦しみは、決して楽なものではない。しかし、それを乗り越えた先には、今僕が感じているこの素晴らしい解放感が待っている。
個室を選ばなかった彼が、大部屋の猛者たちの中で、いかにしてその「イケイケ」な精神を保ち続けるのか。あるいは、痛みの前に完膚なきまでに叩きのめされるのか。それはもう、神のみぞ知る領域だ。
僕は、これから戦場へ赴く無垢な兵士を見送るような、奇妙に切なく、そしてどこか寂しい気持ちを抱えながら、帰路へ着いた。
僕の尻はもう、痛くない。
けれど、あの茶封筒を見た時の胸の痛みだけは、しばらく消えそうにない。
本日の外科診察:終了。
僕の闘病記(外科編):完結。
内科・大腸検査:継続。
お兄さんの闘病記:───開戦。