昨日は、前々から憂鬱だった大腸の内視鏡検査の日だった。
朝から絶食し、あの独特な下剤を何リットルも流し込み、腸の中を文字通り「空っぽ」にする。検査自体は麻酔もなく最悪の検査…終わった後の腹の調子は決して万全とは言えない。ゴロゴロと鳴るお腹を抱え、這うようにして病院を出たのが午後2時半。普通なら、そのまま真っ直ぐ家に帰って布団に潜り込むところだろう。
しかし、昨日の私にはどうしても果たさなければならない「使命」があった。すべては、我が家の子どもたちの笑顔のためである。
ここのところ、子どもたちがテレビやネットを見るたびに「食べてみたい!」と連呼しているドーナツがあった。ミスタードーナツの期間限定商品、通称『もっちゅりん』。大人気すぎてどこの店舗でも完売が相次いでいるらしい。
普段の土日なら長蛇の列、あるいは瞬く間に売り切れだろう。だが、昨日はラッキーなことに平日だ。「平日の昼下がりなら、いくらなんでもチョロいでしょ」——そんな甘い見通しと、少しでも子どもを喜ばせたいという親心が、満身創痍の私を突き動かした。
事前にネットで調べたところ、最寄りのショッピングモール内のミスドでは、午後3時から数量限定で販売されるという。時計を見ると2時半。検査終了からジャスト30分。私はお腹を庇いながら、大急ぎで車を走らせた。
ショッピングモールに到着し、ミスドの店舗前へと急ぐ。販売開始の10分前、2時50分には現着できた。勝った、と思った。
だが、現実は甘くなかった。私はミスタードーナツという存在を完全にナメていた。
「嘘だろ……」
目の前に広がっていたのは、店舗をぐるりと2周するほどの、すさまじい大行列だった。平日の昼間だというのに、一体どこからこれだけの人間が湧いて出てきたのか。並んでいるのは、小さな子どもを連れたお母さんがたや、熱心な若い女性たちがメイン。そのきらびやかで賑やかな列の中に、大腸検査帰りで顔色の悪い、40過ぎのオッサンがポツンと一人。
ぶっちゃけて言えば、私は「スーパーで売っている100円の菓子パンが一番美味い」と思っている種類の人種だ。普段なら、こんな行列を見た時点で1秒で引き返す。しかし、昨日ばかりは違った。ここまでお腹を壊しながら大急ぎでやってきたのだ。「はい、諦めました」と手ぶらで帰るわけにはいかない。男の、いや、父親のプライドが、私をその場に踏み止まらせた。
そこへ、列を整理していたミスドのスタッフさんが申し訳なさそうな顔で近づいてきた。
「恐れ入ります。ただいまから並ばれましても、人気の味は売り切れてしまい、きな粉味しかご購入いただけない可能性が高いですが、大丈夫でしょうか……?」
周囲の空気が一瞬凍りつく。だが、ここまで来て引き下がれるか。
「大丈夫です」
私はポーカーフェイスを崩さず、心の中でそう呟いて列の最後尾にピットインした。腹の不調と闘いながら、周囲の視線に耐え、ただひたすらに前へ進む瞬間を待つ。じりじりと進む列。前の人たちがトレイにドーナツを乗せていく姿を、獲物を狙う鷹のような目で見つめ続けた。
並び始めてから、およそ30分が経過した。ようやく私の番が回ってきた。
ショーケースを覗き込んだ瞬間、脳内に歓喜のファンファーレが鳴り響いた。なんと、私の前の人で売り切れるはずだった『もっちゅりん』が、奇跡的に全種類残っていたのだ。並んでいた誰かが買い控えたのか、あるいは執念が引き寄せた運命か。
トングで品物をトレーにのせる手が、達成感で少し震えた。お会計を済ませ、ずっしりと重いミスドの箱を掲げたときの全能感は半端ではなかった。大腸検査の気だるさも、30分間オッサン一人で並んだ気恥ずかしさも、すべてが吹き飛んだ。この戦利品を手土産に、ドヤ顔で家に帰るルートしか頭になかった。
「ただいま!」
最高の親を演じるべく、意気揚々と我が家のリビングのドアを開けた。
しかし、そこで私の目に飛び込んできたのは、あまりにも非情な光景だった。
テーブルの上には、スナック菓子の空き袋、ペロリと平らげられた別のおやつの残骸、そして満足げにテレビを見ている我が子たちの姿。
「あ、お帰りー」
……おい。こっちはお腹をゴロゴロ言わせながら、平日のミスドで30分も大行列に揉まれて、奇跡的に全種類を勝ち取ってきたんだぞ。
せめて、もう少し飢えた状態で待っていて欲しかった。もっと気持ち良く、親の血と汗と涙の結晶(ドーナツ)を受け取って欲しかった。
子どもたちは「わーい、もっちゅりんだ!」とそれなりに喜んで食べてはくれたものの、すでに別のおやつで満たされたお腹には、あの感動の味が100%は響いていないようだった。
せっかくの火曜日、私の涙ぐましい親心は、こうして子どもたちの「別腹」へと静かに吸い込まれていったのだった。次は絶対に、おやつを食べる前に帰ると心に誓った。