1. ゲリラ豪雨の悪戯と、板橋の洗礼
帰宅までの時間は残りわずか。空を見上げると、今にも泣き出しそうな重たい雲が垂れ込めていた。蒙古タンメン中本の本店を後にし、その下にあるファミリーマートへ駆け込む。夫婦で相談し、「濡れて風邪を引くよりは」と、ビニール傘としては破格の1,000円もする一本を購入した。これでゲリラ豪雨を回避して車まで逃げ切ろう。そう意気込んで歩き出した瞬間、皮肉にも雨はピタリと止んでしまった。
「……こんなもんだよね」
苦笑いしながら、一度も開かれることのなかった高級なビニール傘を手に、夫婦で駐車場まで歩く。この時はまだ、この傘が今日一番の「無駄遣い」になると信じて疑わなかった。
車に戻り、気を取り直してコインパーキングを出ようとアクセルを踏んだ、その時だ。
「ガリガリッ――!」
心臓が跳ね上がるような嫌な音が車内に響く。フロントバンパーの下を、あろうことかパーキングの縁石で派手に削ってしまったのだ。
「はぁー!?」
慌てて降りて確認すると、どういうわけかこの駐車場の縁石、通常のものより一段と高い。都会の罠に嵌まった気分だ。ふと車内を見ると、嫁さんが心配そうにこちらを伺っている。その表情からは、車のダメージよりも「これで旦那の機嫌が最悪になるんじゃないか」という、嵐の前の静けさを恐れるような不安が透けて見えた。
ここで怒っても傷は治らない。「やっちまった……まぁ、しょうがねぇか。下側だし、見なかったことにしよう!せっかくの東京だ、楽しもうぜ」
自分に言い聞かせるように気持ちを切り替え、車内に戻った。
2. 首都高の迷宮、新宿の絶望
「これはもう事故みたいなもんだ!さあ、次に行きたいところはどこだ?」
努めて明るく問いかけると、嫁さんの顔にパッと安堵の表情が浮かんだ。彼女の希望は「ディプティック(diptyque)」という店だった。
「ディプティックって何屋なんだ?」
聞けば、非常に洗練された香水屋らしい。我々の住む田舎には基幹店すら存在しないという。それなら行ってみようじゃないか。
田舎者の最強の武器、Google Mapに「ディプティック」と打ち込む。最初にヒットしたのは新宿店だった。立地も交通事情も分からないまま、アプリの導くままに新宿を目指すことにした。
「目的地まで40分」
その数字を信じて、どのインターかも分からないまま首都高の激流に飛び込んだ。
しかし、現実は非情だ。新宿に近づくにつれ、周囲は逃げ場のない大渋滞に。そんな極限状態の中、カーナビが非情な宣告を下す。
「左の出口を降ります」
冗談だろう。自分は今、右車線のガチガチに固まった渋滞の中にいる。隣の車との距離は数センチ、割り込む隙など微塵もない。抗う術もなく、降りるべきインターがゆっくりと、しかし確実に後方へと流れ去っていく。
ナビは無機質に、次のインターで降りて引き返せと指示を出す。土地勘のない人間にとって、首都高での逆走(引き返し)は地獄の沙汰だ。焦りとイライラが車内に充満し始めたのを感じ取ったのか、嫁さんが消え入るような声で言った。
「……もういいよ、帰ろう……」
その言葉が、逆に自分をテンパらせる。せっかく東京に来たのに、このまま険悪な空気で帰りたくない。
「いや、とりあえずここから一番近い別のディプティックを調べてくれ!」
3. 丸の内、都会のオアシス
嫁さんが必死に検索し、ヒットしたのが「丸の内」だった。
即座に目的地を変更する。覚悟を決めてハンドルを切ったが、驚いたことに丸の内までは拍子抜けするほどサクサクと進めた。東京駅周辺といえば日本で最も運転が難しい場所だと思い込んでいたが、ナビの指示通りに進むと、あっさりと指定の駐車場に滑り込むことができた。
地下駐車場から地上へ這い上がると、そこには別世界が広がっていた。
道端には田舎ではまずお目にかかれない高級車が整然と並んでいる。メルセデス・マイバッハの実物を初めて見て、思わず足が止まった。周囲を見渡せば、日本を代表するナショナルクライアントの看板がズラリと並び、見上げるほどの高層ビルが空を切り取っている。
「スゲー……日本の中心地、恐るべしだな」
ただただ、圧倒された。
しかし、この街は何かが違った。新宿のような殺伐とした空気がない。
嫁さんの目的の店を探して歩き出すが、彼女は道中の他のショップに次々と目移りしている。「この店、雑誌で特集されてた!」「ここのチーズケーキは入手困難なんだよ!」と、瞳をキラキラさせている。
普段の自分なら「おいおい、爆買いモード突入かよ……」と警戒を強める場面だ。しかし、不思議とこの丸の内という街は、自分にとっても居心地が良かった。ミストシャワーからは微かに良い香りが漂い、美しく整備された人工芝では、家族連れや女子会の人々が、東京のど真ん中とは思えないほど穏やかな時間を過ごしている。
時間の流れがここだけゆっくりと、そして贅沢に流れているような、不思議な感覚だった。
4. ディプティックの魔法と、接客の極み
ほどなくして、目的の「ディプティック 丸の内店」を見つけた。
店内に一歩足を踏み入れて、また驚かされた。接客が、実に見事なのだ。
我々のような、香水の知識も皆無で田舎者丸出しの夫婦。おまけに、いかにも「付き添いで来ました」という風な、少し偏屈そうなツラをした旦那。そんな我々を、スタッフの方は少しも卑下することなく、むしろ香水という奥深い世界へ優しく誘い込むような、極上のホスピタリティで迎えてくれた。
その魔法のような接客に、自分までいつの間にか夢中になっていた。
結局、夏限定の素晴らしい香水を選び、嫁さんにプレゼントすることができた。
つい一時間前、1,000円のビニール傘を買わされたことにブツブツ文句を言い、縁石で車を擦って不機嫌になりかけていた男が、今やこの洗練された空間で、最高の気分で買い物を楽しんでいる。プロの接客の凄みを、肌で感じた瞬間だった。
5. 喧騒と静寂、そして帰路へ
せっかくなので、そのまま歩いて東京駅の駅舎も見に行ってみることにした。
……が、こちらはダメだった。
人の流れが、文字通り「えげつない」。四方八方から押し寄せる人の波に、数分で「無理!」と判断。田舎者の我々は人の量に酔ってしまい、即座に退散を決定した。
這々の体で丸の内エリアへと戻る。すると、やはりそこにはあの穏やかな空気が流れていた。
「ここは本当に、都会のオアシスなんだな……」
車を擦ったショックも、首都高でのパニックも、すべてを丸の内の洗練された空気が洗い流してくれたような気がした。
駐車場を出て、地元までの4時間のドライブ。
車内では、東京での出来事、丸の内の街並み、そしてあの素晴らしい接客の話が尽きることなく続いた。
1,000円の傘も、バンパーの傷も、今となっては旅のいいスパイスだ。
「またいつか、あの穏やかな街へ行こう」
そんな話をしながら、夜のハイウェイを走り続けた。