今日もまた、我が家には「あと10分」という空虚な言葉が響いた。
勉強が嫌い。その一点において、我が子たちは驚くほど私の血を色濃く継いでしまったようだ。振り返れば、自分自身も机に向かって鉛筆を走らせた記憶など、霧の向こう側のようにかすんでいる。幼少期の自分を鏡で見ているような、どこか苦笑いしたくなるような感覚。しかし、笑ってばかりもいられないのが親心というものだ。
私は、自分の学歴にコンプレックスを抱えている。それは他人のせいではない。かつて真面目に机に向き合わなかった、若かりし日の自分のツケが、今になって重くのしかかっているのだ。社会に出て、冷たい風にさらされるたびに思う。「せめてもう少し、教養という武器を持っていれば」と。
だからこそ、子供たちには同じ轍を踏んでほしくない。何も、誰もがひれ伏すような高得点を取ってほしいわけでも、一流大学を目指してほしいわけでもない。ただ、社会という荒波に出たときに、恥をかかない程度の常識と教養を身につけておいてほしい。私の職場にいる若い世代の中には、驚くことに足し算すら危うい者もいる。彼らを否定するつもりはないが、親として、自分の子がその域で苦労する姿だけは見たくない。
これは結局、私の「親のエゴ」なのだろう。自分ができなかったことを子供に託しているに過ぎないのかもしれない。
現状は、理想とは程遠い。子供たちの手にはiPadが吸い付くように収まり、その画面の中では無限の時間が過ぎていく。しかし、いざ教科書を開けば30分も持たない。「あと10分したらやるから」という約束は、1時間が経っても果たされることはなく、結局は私が声を荒らげることになる。これが我が家の、いつもの、そして終わりのない日常の風景だ。
できる限り、私は子供たちの勉強に付き合うようにしている。工場の仕事で疲れ果てた体を引きずってでも、隣に座り、同じ目線でノートを眺める。自分から進んで机に向かう姿を夢見ているが、現実は甘くない。自分から「やろう」という火が灯る気配は、今のところ微塵も感じられない。毎日、毎日、重い腰を上げさせるために尻を叩き続ける日々。
妻はそんな私を見て、呆れたように言う。
「本人がやる気がないんだから、もう放っておきなさいよ」
その言葉も一理あるのかもしれない。無理にやらせても身につかないという説も理解している。だが、親として「んなわけにいかんだろ!」と叫びたくなるのだ。ここで私が手を離してしまったら、この子たちはどこまで流されていってしまうのか。その恐怖が私を突き動かしている。
私が求めているのは、たった二つだ。学校から出された宿題を終わらせること。そして、わずかでもいいから自学の習慣を持つこと。それだけでいい。100点満点などいらない。ただ、やるべきことに自分から向き合う強さを持ってほしい。それだけのことなのに、その「それだけ」が、仕事の工程よりも骨の折れる、気の遠くなるような作業なのだ。
正直、疲れる。毎日、同じことで怒り、同じことで溜息をつくのは、精神を削り取るような作業だ。しかし、決めていることがある。ここで私が付き合うのをやめたら、きっと最悪の結果が待っている。将来、子供たちが「あの時、もっとやっておけば」と私と同じ後悔を口にする姿を見るのだけは、絶対に避けたい。
本人が、自分の意志でペンを握るその日が来るまで。
私は明日も、明後日も、泥臭く彼らの尻を叩き続けてやる。
それが、学歴にコンプレックスを持ち、それでも必死に家族を支えようともがく、私という人間に課せられた「父親」としての重要な日課なのだ。今夜も、静まり返ったリビングで一人、そんな決意を新たにする。