朝、まだ太陽すら顔を出していない暗がりのなかを出勤した。工場の重苦しい空気とともに私を待ち構えていたのは、通称「ゴリラ常務」ことTZ氏の、鼓膜を震わせるような怒鳴り声だった。
「今日はトラブルで操業できるかわからない! 全力で対応するぞ!」
そう大騒ぎする彼自身は、旗を振っているだけで具体的に何か動くわけではない。嵐の中心にいる自分に酔っているかのようだ。その姿を冷ややかに見つめながら、私は心のなかで毒づいた。そんなに大ごとで操業停止の可能性があるなら、出勤前に連絡をくれればいいものを。わざわざこの時間に呼び出しておいて、現場を混乱させるのが彼の「全力」なのだろうか。
現場は、まるで災害が発生したかのようなバタバタとした空気に包まれていた。事態を把握しきれていない管理職たちが数人、慌てて出勤してくる。私のような一作業員には詳細な状況など説明されないし、こちらも関わらないように距離を置く。
正直なところ、現場の動きを見ていて「あそこをああすればいいのに」という改善策はいくつか頭に浮かんでいた。しかし、それを口に出すことはしない。ぐっと我慢した。私はこの会社で、それなりの「嫌われ者」だという自覚がある。下手に口を出せば余計な摩擦を生むだけだし、第一、私はこの会社を心の底から恨み、憎んでいる。組織のために良かれと思って動く気力など、とうの昔に枯れ果てていた。
停滞した空気のなか、刻々と時間だけが過ぎていく。そして午前8時、ようやく「本日の操業停止」が正式に決定した。
「ざまーみやがれ」
心の中で吐き捨てた。これ以上、この負のエネルギーが充満した場所にいたくはない。8時過ぎに「今日は帰宅」と告げられるやいなや、誰かに呼び止められて引き止められる前に、逃げるように会社を飛び出した。
帰宅すると、家の中はまた別の「トラブル」の最中だった。ちょうど保育所に行く直前の息子。当然のように、彼は「行かない!」と一点張り。普段なら困り果てるところだが、今日は空が驚くほど青く、絶好の行楽日和だ。会社での不快な余韻を振り払うように、私は決めた。
「よし、海へ行こう」
じい、ばあ、息子、愛犬、そして私の5人で連れ立って、地元の海へと向かった。
浜辺に着いた当初は、まだ神経が尖っていた。朝の工場の殺気立った空気、常務の怒鳴り声、会社への憎しみ。仕事モードのままの脳が、突然訪れた静寂にしっくりこない。なんだかソワソワして、落ち着かない感覚が胸の奥に残っていた。
しかし、打ち寄せる波の音を聞き、お天道様の柔らかな光を全身に浴びているうちに、凝り固まった心が少しずつ解けていくのがわかった。
「パパー! 見て見て!」
息子が砂浜を駆け回り、大はしゃぎで声を上げる。それに呼応するように、愛犬が寄せては返す波に向かって元気よく吠える。その無邪気な光景を眺めているうちに、ふと、「なんていい時間なんだろう」という思いが込み上げてきた。
さっきまでの会社での苛立ちが、砂の城が波にさらわれるように消えていった。
自分は確かに、仕事に関しては全然だめかもしれない。組織のなかでは嫌われ、疎まれる存在かもしれない。けれど、目の前に広がるこの豊かな自然と、笑い合える家族、この環境には、言葉にできないほど恵まれている。
「次は、学校に行っている娘も連れてきてあげたいな」
心からそう思った。家族全員でこの光を浴び、波の音を聴くことができれば、それ以上に幸せなことはないだろう。
会社への憎しみで始まった一日だったが、終わってみれば、これ以上ないほどのリフレッシュと、感謝に満ちた休日になった。人生、何が幸いするか分からないものだ。
……もっとも、夜になって妻が余計なことを吹き込んだせいで、子供たちの間では「パパは会社をクビになったらしい」というデマが真実味を帯びて広まっているようだが。まあ、あの会社に縛り付けられているよりは、子供たちの目にそう映っているくらいが、自由で丁度いいのかもしれない。