明日は、とうとう大腸の内視鏡検査だ。

私は以前、直腸のポリープを切除する手術を経験している。あの時は、まな板の上の鯉状態で手術台に上がった。あの瞬間、私の人生における「大腸にまつわる恥じらい」は、すべてあの病院の処置室と病室の床に置いてきたつもりだった。これ以上の羞恥心なんて、この世に存在するはずがない。そう高を括っていたのだ。

だから今回の内視鏡検査に対しても、恐怖心や緊張はあれど、恥ずかしさという点においては完全に「無敵モード」に入っている自負があった。

……そう、数時間前までは。

夜、手持ち無沙汰になって、病院から持たされて帰ってきた「大腸内視鏡検査のご案内」という紙のしおりを何気なく見返していた時のことだ。明日持参するものや、当日の来院時間の最終確認をするために、パラパラとページをめくっていた。

すると、ある一ページ、それも結構な太字で強調された一文が、私の目に飛び込んできた。

「当日、院内にて看護師が便の状態を直接確認します。完全に透明(カスがない状態)になるまで、検査は始められません。」

……え?

ちょっと待ってほしい。聞き捨てならない言葉が書いてある。

「看護師が」「便を確認します」?

私の脳内は一瞬でフリーズした。

直腸の手術の時は、麻酔がかかっていたり、あるいは「医療行為の一環としての処置」という大義名分があったりしたから、まだ割り切れた。しかし、今回は違う。私が排泄したものを、生身の看護師さんが、文字通り「じっくりと目視でチェックする」というのだ。それも、お腹が綺麗に透き通るまで、何度も、何回も。

「嘘だろ……」

思わず声が出た。置いてきたはずの、とっくに捨て去ったはずの私の「羞恥心」という名のプライドが、猛烈な勢いで足元から這い上がってくるのを感じた。

想像してみてほしい。自分がトイレで用を足したあと、インターホンか何かで看護師さんを呼び出し、「確認をお願いします」と声をかけるのだ。そして、やってきた看護師さんが、私の排泄物が入った便器(あるいは専用の容器)を覗き込み、「うーん、まだ少しカスがありますね。もう1杯下剤を飲みましょうか」などと、プロフェッショナルな真顔でジャッジを下すのである。

いくら相手が毎日のようにそんな光景を見ている医療のプロ、いわば「便のソムリエ」のようなベテラン看護師さん(失礼)だとしても、こちらとしては耐え難いものがある。プロであればあるほど、その冷静な眼差しが逆にこちらの羞恥心を極限まで煽ってくるのではないか。

「私はもう、すべてを捨てて無敵になったんじゃなかったのか?」

過去の手術で得たはずの謎の自信は、その太字の一文によって木っ端微塵に打ち砕かれた。これまで経験したことのない、全く新しいタイプの恥をかくのではないかという不安が、じわじわと胸の奥を侵食していく。

明日、私はどんな顔をして看護師さんを呼び出せばいいのだろう。どんな表情で「確認をお願いします」と言えば、お互いに一番ダメージが少なくて済むのだろうか。いっそのこと、完全に無表情のロボットになりきるか、あるいは「これは私のものではありません」と言いたげな、完全に他人事のような顔を決め込むべきか。

今さらじたばたしても始まらないのは分かっている。検査を正確に、安全に行うためには、腸の中が完全に綺麗になっている必要がある。看護師さんのその確認作業こそが、私の命を守るための重要なステップなのだ。それは頭では痛いほど理解している。

理解はしているけれど、心が追いつかない。

明日の今頃には、すべてが終わって解放感に包まれていることを願うばかりだ。いや、願わくば、明日の朝一番の排泄で、奇跡的に一発で「合格(完全なる透明)」をもらい、看護師さんを何度も呼び出すという生き地獄だけは回避したい。

時計を見ると、もうすぐ日付が変わる。

明日は、私の人生における「恥じらいのパラダイムシフト」が起きる日になりそうだ。

もう覚悟を決めて、寝るしかない。頑張れ、私の腸。一発合格を目指してくれ。