日々の生活の中で、私たちはどれだけの言葉を交わし、どれだけの想いをすれ違わせているのだろうか。
現在、妻は学業に励んでおり、その忙しさは傍目で見ていても痛いほど伝わってくる。目標に向かって突き進む彼女を支えたいという気持ちに嘘はない。だからこそ、私は平日の仕事帰りも、仕事に追われる土曜日も、彼女が少しでも休めるように、そして栄養を摂れるようにと台所に立ち続けてきた。
しかし先日、そんな自負を根底から揺さぶるような出来事があった。
いつものように、帰宅後の妻に「今日の夕飯、どうする?」と声をかけた時のことだ。献立の相談というよりも、彼女の体調や気分を察したくてかけた言葉だった。だが、返ってきたのは、予想だにしない一言だった。
「いいかげんに作ってくれれば、それ食べるから」
その瞬間、頭の中で何かが切れる音がした。
「いいかげん」とは、一体どういう意味なのだろうか。
私が平日の疲れを押し殺して包丁を握る時間は、土曜日の休日を返上して働いた後に献立を考える労力は、彼女にとって「いいかげん」で済ませられる程度のものだったのだろうか。
もちろん、彼女に悪気がないことは分かっている。余裕がなく、投げやりな表現になってしまっただけなのだろう。しかし、こちらだって人間だ。聖人君子ではない。精一杯の思いやりを込めて用意してきた食事を、まるで作業の産物かのように扱われたショックは、怒りを通り越して深い虚脱感へと変わっていった。
「もう何も作りたくない。勝手にしてくれ」
そんな言葉が喉まで出かかった。いっそこのまま、浴びるほど酒を飲んで、何もかも忘れて寝落ちてしまおうかとも思った。
忙しいのは分かる。余裕がないのも分かる。けれど、親しき仲にも礼儀があり、共に暮らすパートナーだからこそ、守るべき言葉の境界線があるはずだ。一言「何でも嬉しいよ、ありがとう」と言ってくれるだけで、私の疲れは報われ、また明日も頑張ろうと思えたはずなのに。
食事を作るという行為は、単なる栄養補給ではない。相手を想い、時間を削り、日常を慈しむという、私なりの愛情表現だった。それが「いいかげん」という無造作な言葉に飲み込まれてしまったことが、何よりも悲しかったのだ。
今はまだ、台所に立つ気力は湧かない。少しだけ、自分を甘やかす時間が必要だ。
ただ、このモヤモヤをぶつけるのではなく、いつか彼女に伝えたいと思う。「あなたの支えになりたいと思っているけれど、私の努力も、どうか大切に扱ってほしい」と。言葉一つで傷つく心がある一方で、言葉一つで救われる心もあるのだから。