朝7時。いつもなら工場に響き始めるはずの、あの少し頼りない足音が聞こえてこない。TH君がいない。
彼は普段、お世辞にも「工場の主役」とは言えない存在だ。正直なところ、作業工程において彼が欠けたからといってラインが止まるわけでも、誰かが致命的に困るわけでもない。しかし、そこにいるはずの人間がいないという事実は、まるで古い機械の隙間に溜まった埃が急に消えたような、妙な違和感を工場全体に漂わせていた。
「とうとう、ギブアップしたのか……」
私の脳裏をよぎったのは、T君による連日の「教育」という名の厳しい洗礼だ。T君の指導は熱血を通り越し、時として見ているこちらが胃を痛めるほどに鋭い。TH君のあの少し伏せがちな目が、ついに限界を迎えて光を失ってしまったのではないか。
「可哀想に……」
そんな同情の念が、朝の静かな工場に、湿った空気のように広がっていた。
ところが、時計の針が7時半を回った頃、彼は現れた。
いつにも増して挙動不審な動きで、入り口からキョロキョロ、キョロキョロと辺りを伺いながら。
彼は、すでにフル稼働で火花を散らし、モーター音を響かせている工場の光景を見て、文字通り飛び上がらんばかりに驚いていた。「えっ、なんで? もう始まってるの?」という心の声が、その泳ぐ視線から痛いほど伝わってくる。
そして、その驚きが冷める間もなく、数分後にはお決まりの光景が始まった。
T君からの「熱い指導」だ。
「何時だと思ってるんだ!」「やる気があるのか!」
怒号に近い声が響く中、TH君はなぜか、何度も、何度もこちらを恨めしそうに見てくる。その視線は湿り気を帯びていて、まるで「あなたが言わなかったからだ」とでも言いたげな、筋違いの怨念に満ちている。
正直、不気味だった。「なんだあいつは? 自分が遅刻したくせに、なぜ私を睨むんだ?」と、こちらまで少しイラ立ちを覚えたほどだ。
しかし、8時になり、他の社員たちが続々と出社してきたところで、事態は一変した。
パズルのピースが、一気に、そして最悪の形で噛み合ったのだ。
昨日まで、彼らの出勤時間は7時半だった。それが、生産スケジュールの変更に伴い、今日から急遽7時出勤に繰り上げられていた。その連絡網のどこかで、決定的な断絶が起きていた。
上司のYさんが、首筋を掻きながらバツが悪そうにこう言った。
「あ、そういえば。社長から全員に直接伝えるように言われてたんだけどさ……俺、THにだけスタート時間伝え忘れてたわ。いやあ、まずったな〜」
……戦慄が走った。
つまり、TH君はサボったわけでも、寝坊したわけでもなかった。彼は、自分が知る限りの「正解の時間」に、真面目に出社してきただけだったのだ。
それなのに、いざ扉を開ければ自分以外の全員が仕事を始めていて、理由も分からぬまま激昂するT君に吊るし上げられ、理不尽な怒りを浴びせられた。
彼が私を恨めしそうに見ていたのは、助けを求めていたのか、あるいは自分だけが疎外されている孤独への絶望だったのか。
彼が生まれ持った「運の悪さ」なのか、あるいはその「近寄り難い雰囲気」が情報の伝達を阻んだのか。原因はどうあれ、この結果はあまりに無慈悲だ。モノ作りの現場というものは、時にこうした非論理的で、残酷なズレを平然と飲み込んでしまう。
昼休憩。私はデスクに置いていたバケットに手を伸ばした。
4日前には、外はパリッと、中はモチモチとして、小麦の香りが鼻を抜ける絶品だったバケット。
しかし、4日間放置され、乾燥しきったそれは、もはや食べ物というよりは一本の「棍棒」のようになっていた。
カチカチ。いや、かっちかっちだ。
思い切り噛もうものなら、顎の骨が悲鳴を上げ、歯が根元から折れてしまいそうなほど、容赦なく固い。
本来なら人を幸せにするはずのパンが、時間の経過と環境の変化によって、凶器のような存在に成り果てている。
今の工場の空気も、このバケットのようだ。
ちょっとしたボタンの掛け違い、伝え忘れ、そして過剰な指導。
それらが積み重なり、乾燥し、誰も噛み砕けないほどに硬直してしまっている。
TH君、明日は良いことがありますように。
せめて明日の朝、彼が「正しい時間」に、誰にも睨まれることなく工場を歩けることを願わずにはいられない。
私は、折れそうな歯を気にしながら、石のように固いバケットの端を、ゆっくりと、しかし虚しく噛み締めた。