ゴールデンウィークが明けた。カレンダーの数字が黒く戻った途端、世界が急に色を失ったような錯覚に陥る。

今年の休みは、例年とは少し意味合いが違っていたはずだ。療養のために2週間の長期休暇を取り、その後なんとか身体を動かして2週間働いた。そしてようやく迎えた5連休。理屈で考えれば、身体は十分に休まったはずだ。これ以上何を望むのかと、自分の中の理性が問いかけてくる。だが、本能が、そして細胞のひとつひとつが、重い鉄の扉を閉ざすようにして出勤を拒んでいる。

世間では最大13連休を謳歌する人々もいたというが、我が社の休暇は5日間。その短い安息さえ、今の自分にはあまりにも儚く、そして会社という場所へ戻るための助走としては短すぎた。

今朝、会社の門をくぐった時のあの独特の空気。鉄と油の匂いが混じり合う、慣れ親しんだはずの現場。しかし、そこで私を待ち構えていたのは、自分とは決定的に異なる人種の熱気だった。

驚くべきことに、この場所には「出勤を心待ちにしていた」連中が少なからず存在する。

彼らは口を揃えて言う。「休みが長すぎると、最後の方は何をしていいか分からなくなる」「暇を持て余して、むしろ会社に来ている方が落ち着く」と。わざわざ言葉にして宣言するわけではないが、その表情や、同僚と交わす何気ない会話の端々から、会社にいる喜びが隠しきれずに滲み出ている。

彼らにとって、家という場所は休息の地ではなく、ただの「所在なき空間」なのだろうか。あるいは、家庭の中に自分の居場所を見出せず、孤独を埋めるためにこの組織という箱を必要としているのだろうか。誰かに構ってもらいたい、誰かと繋がっていたいという乾いた空気が、彼らの背中から微かに漂ってくる。その寂しさを仕事への情熱という形にすり替えて、彼らはこの場所に「楽しさ」を見出している。

かつて、誰かが言っていた。「仕事を心から楽しめる人間こそが、人生の勝ち組である」と。

もしその定義が正しいのだとすれば、今の私は間違いなく、救いようのない「負け組」だ。心身ともに職場を拒絶し、休みの延長線上に永遠に留まっていたいと願う自分。連休の終わりをカウントダウンしながら、沈み込むような気持ちで夜を過ごした自分。彼らのような「会社という居場所への渇望」を持てない私は、この社会において、あるいはこの組織において、異端であり、敗北者なのだろうか。

しかし、そう自嘲しながらも、心のどこかで冷めた視線を送っている自分もいる。

彼らの言う「楽しさ」とは、本当に主体的なものなのだろうか。ただ独りでいることに耐えられず、ルーチンワークという名のレールに乗せられていることで安心を得ているだけではないのか。自分を構ってくれる他者がいなければ成立しない満足感は、あまりにも脆いのではないか。

私にとって、休日は決して「暇を持て余すもの」ではなかった。

療養を経て、ようやく取り戻しつつあった自分だけの時間。静かに本を読み、家族と過ごし、植物の成長を眺める。そんな、会社という役割を剥ぎ取った「ただの自分」に戻れる時間は、どれだけあっても足りない。暇だと感じる暇すらないほど、私は私自身の生活を愛していたいのだ。

だからこそ、身体が仕事を拒否するのは、それだけ自分のプライベートな時間が、そして本来の自分が、職場という戦場に侵食されることを恐れている証拠なのかもしれない。

仕事が好きになれないこと。連休明けに絶望を感じること。それは、会社以外の場所に、自分にとって本当に大切な価値観が根付いているからだとも言える。彼らのような「勝ち組」にはなれなくても、せめて自分の感覚には正直でありたい。

無理に彼らのテンションに合わせる必要はない。彼らが暇を潰すために働くのであれば、私は私の生活を守るために、この「拒絶反応」を抱えたまま、淡々と、しかし確実に、鉄の重みと向き合っていこうと思う。

今日という一日をやり過ごした自分を、まずは労いたい。

勝敗の判定など、誰に委ねる必要もないのだから。