私の職場である工場の冬は、一言で言えば「極北」だ。

見渡す限りの床面は、無機質な鉄板か、あるいは冷徹なコンクリート。それらが広大な面積で広がり、冬の冷気をこれでもかと蓄えている。暖房器具がいくら空気を温めようと試みたところで、足元から這い上がってくる底冷えには到底抗いようがない。

上半身をどれだけ着込み、体を動かして体温を上げても、足先だけは別世界だ。感覚が麻痺し、しまいには痛みさえ感じるほどの冷え込み。それでも、これまでの私はどこかでこの寒さを「冬の風物詩」のように受け流せていた。「ああ、今年も寒いな」……その程度の独り言で、やり過ごせていたのだ。

しかし、40歳という坂を越えた今年、異変は起きた。

これまで私の足を長年守り続けてきた綿の靴下が、全く用をなさなくなったのだ。気づけば足の指は、まるで別の生き物のように真っ赤に腫れ上がり、浮腫んでいる。ただの冷えではない。それは、忘れていた幼少期の記憶を呼び起こすような、あの忌々しい「霜焼け」だった。

安全靴を履こうとするだけで、患部に鋭い摩擦が走り、顔をしかめる。仕事中も、じっとしていればジンジンと痛み、少し暖まれば今度は烈火のような痒みが襲ってくる。かつてはあんなに頼もしかった安全靴が、今はまるで足を締め付ける拷問器具のようにさえ感じられる。

「どうして、急にこんなことになったのだろう」

そんな問いが頭をよぎる。食事に気を使っていないわけではないし、生活が大きく変わったわけでもない。変わったのはただ一つ、自分の年齢だ。

40歳を過ぎた途端、目に見えないところで身体の「機能」がじわじわと、しかし確実に形を変えていくのを痛感させられる。血の巡りが悪くなり、以前なら跳ね返せていたはずの冷気を、細胞がそのまま受け止めてしまうようになった。これまで当たり前だと思っていた「健康」や「頑健さ」が、実は薄氷の上に成り立っていたことを、この真っ赤に腫れた足先が何よりも雄弁に物語っている。

「劣化」という言葉は、本来なら工業製品に対して使うものだ。しかし、今の自分を表現するのに、これほど腑に落ちる言葉もない。長年使い込まれた機械のパーツが摩耗し、異音を立て始めるように、私の身体もまた、40年という年月を経て、メンテナンスの方法を変えなければならない時期に来ているのだろう。

結局、私は長年愛用してきた綿の靴下を卒業し、藁をも掴む思いでウールの靴下を新調した。

一足の靴下を変える。それは単なる防寒対策ではない。今の自分の弱さを認め、変わりゆく身体に歩み寄るための、ささやかな、しかし切実な「和解」の儀式でもあった。

ウールの温もりは確かに優しい。けれど、その柔らかさに触れるたび、少しだけ寂しさも覚える。綿の靴下一枚で、どんなに冷たい鉄板の上でも平気で立っていられた、あの頃の自分にはもう戻れないのだと。

工場の床は、今日も変わらず冷たく、容赦がない。

だが、私はこの新しいウールの靴下を履き、腫れた足に少しだけ気を使いながら、また明日もあの鉄板の上に立つ。40代という新しいステージは、こうして自分の「痛み」と対話しながら、少しずつ折り合いをつけて進んでいくものなのだろう。

冬はまだ続く。

だが、このジンジンとする足先の痛みも、いつか春が来るまでの、今の自分を刻む勲章のようなものかもしれない……。そんな風に、自分を納得させる今日このごろである。