月に一度の「ロト6」購入。それは私にとって、単なるギャンブルではなく、日常という名の閉塞感に打ち込む唯一の楔(くさび)のようなものです。

世間ではよく「宝くじは愚か者に課せられた税金」だとか「数学ができない人への罰金」などと揶揄されます。確かに、その通りなのでしょう。計算上、当たる確率は天文学的な数字であり、期待値を考えれば2,000円をドブに捨てているのと同義かもしれません。その言葉を耳にするたび、「ああ、自分はやはり一生、搾取される側の貧乏人なのだな」という自嘲が胸をかすめます。

しかし、40歳を過ぎた「おっさん」という生き物は、残酷なほどに自分の限界を思い知らされています。

若い頃に抱いていた「自分は何者かになれる」という万能感は、とうの昔に霧散しました。自分には、現状を打破するほどの突き抜けたやる気もなければ、他者を圧倒する才能も、すべてを投げ打って勝負に出る度胸もありません。会社では代わりの利く歯車として働き、家ではただ齢を重ねる自分を持て余す。そんな男が、自力で「億」という単位の資産を手に入れる可能性を考えたとき、ビジネスの成功や投資の勝ち抜きよりも、ロト6の数字が一致する確率の方が、まだ「現実味」を帯びて見えてしまうのです。

この2,000円は、絶望を買い支えるためのコストです。

もしこの2,000円を握りしめ、身の丈に合った「ささやかな贅沢」として少し良いランチを食べたとしましょう。腹が満たされるのはわずか数時間、その幸福感は翌朝には消え失せ、また灰色の日常が始まります。しかし、ロト6の券に変えれば、抽選日までの数日間、私の心には「蜘蛛の糸」よりも細い、けれど確かな希望が繋がれます。

「もし当たったら、今の仕事をどう辞めようか」「どこへ旅に出ようか」「誰にも言わずにどんな生活を始めようか」

そんな、現実味のない空想に浸っている間だけ、私は「ただの冴えないおっさん」というアイデンティティから解放されます。この微かな高揚感が、明日もまた明朝からの仕事、理不尽な要求に耐えるためのガソリンになるのです。

客観的に見れば、それは「貧者のあがき」に過ぎないのかもしれません。それでも、何の楽しみも、何の逆転の可能性も信じられないまま老いていくよりは、月に一度、2,000円分の夢に賭ける方が、私にとってはよほど人間的な営みに思えるのです。

宝くじが税金だと言うのなら、それは「明日を夢見る権利」を維持するための、私なりの納税です。この薄っぺらな紙切れ一枚に託された希望が、今日も私を、なんとか現世に繋ぎ止めてくれています。