話を聞けば、これまで家を行き来したことも、特別な付き合いがあったわけでもない女の子が、わざわざ我が家の場所を調べ、親御さん同伴で届けてくれたという。まさに奇跡。あるいは、何かの間違い。私は今でも、その女の子が地図を読み間違えたか、何かの罰ゲームの真っ最中だったのではないかと疑っている。
しかし、現場(玄関)に居合わせた妻の証言によると、事態はさらに深刻な「イラつき」を孕んでいた。
チョコを受け取った我が家のモンスターは、感謝の意を示すどころか、あろうことかズボンのポケットに手を突っ込み、斜に構えて「……あざす」と言わんばかりのスカした表情を見せたという。さらに絞り出した「ありがとう」という声は、蚊の羽音よりも小さかったそうだ。
私がその場にいたら、間違いなく「ポケットから手を出せ! 腹から声を出せ! そもそもお前、そのチョコを頂けるような善行を一つでも積んだのか!」と一喝していただろう。だが、悲しいかな、私は仕事で不在。モンスターのやりたい放題、いわゆる「モテ男ムーブ」を許してしまったのである。
モンスター、覚醒(?)の勘違い
嵐が去った後、さらなる悲劇が私を襲う。
帰宅した私が見たのは、これまで見たこともないほど「悦」に浸っている息子の姿だった。
手元には、例のチョコ。彼はそれを眺めながら、独り言のようにこう呟いたという。
「あー、これいつ食べようかなぁ。今食べちゃうのもったいないし、後に残しておこうかなぁ……」
どの口がそれを言うのか。
昨日の夜、ご飯のおかずを「これ嫌い」と言って残した口か。宿題を忘れて先生に怒られた口か。どの角度から見ても、彼は今、自分を「選ばれし美男子」か何かにカテゴライズしている。その勘違いっぷりは、見ていて清々しいほどに腹が立つ。
そして、事件はそれだけで終わらなかった。
あんなに無頓着だった奴が、鏡の前で「髪型」を気にし始めたのである。
これまでは「寝癖? それが俺のスタイル」と言わんばかりにボサボサのまま登校していた男が、2026年のバレンタインを境に、鏡に向かって前髪の角度を1ミリ単位で調整し始めたのだ。
正直に告白しよう。私自身、人生において「女の子が家までチョコを届けに来てくれる」という、少年漫画の1ページ目のような経験をしたことがない。
そんな奇跡を、親の言うことも聞かないモンスターが、あろうことかポケットに手を突っ込んだ状態で達成してしまった。この「不条理」をどう処理すればいいのか。
• 現状分析1: 女の子が、彼の隠れた才能(あるのか?)を見抜いた。
• 現状分析2: 彼が、実は家で見せない「猫を100枚被った姿」を学校で披露している。
• 現状分析3: 2026年、世界線の歪みが生じた。
どう考えても3番が有力だが、現実に彼は鏡の前で「俺、意外とイケてんじゃね?」というオーラを放ちながら髪をいじっている。
「おい、髪型を気にする前に、まずその脱ぎっぱなしのパジャマを片付けろ」
そう言いたい言葉を飲み込み、私は冷めたコーヒーを啜る。今ここで怒鳴れば、きっと彼は「モテる男は辛いぜ」といった風な、さらにイラつく表情を浮かべるに違いないからだ。
バレンタインが、こんなにも父親の心を複雑にするイベントだったとは。
勘違いが勘違いを呼び、モンスターが「自称・色男」へと進化を遂げようとしている2026年の冬。我が家の平和(と私の精神衛生)は、この一粒のチョコによって、かつてない危機に瀕している。
とりあえず明日、彼が鏡の前で10分以上粘るようなら、こっそりワックスの中に小麦粉でも混ぜてやろうか……そんな大人げない思考が頭をよぎる、切ないバレンタインの夜であった。