日曜日に娘の新しいスマホを買って以来、我が家には目に見えない、しかし確実に皮膚を刺すような圧力が充満している。
娘からの「初期設定をしてくれ」という催促が、もはや日常のBGMと化しているのだ。私としては、決して無視しているわけではない。「暇な時に、少しずつやるから……」と、最大限に穏やかなトーンでなだめている。しかし、彼女の辞書に「待機」という文字はないらしい。数分もすれば、何食わぬ顔でまたスマホの箱を抱えて現れる。その期待に満ちた瞳の奥には、もはや執念に近い何かが宿っている。
冷静に考えれば、彼女は普段からiPadを使いこなしている。スマホを持ったところで、通話機能が増える程度で、生活が劇的に変わるわけでもなかろう。使い出せばすぐに「当たり前の道具」になり、放り出されるのがオチだ。それなのに、今の彼女にとってスマホは、まだ見ぬ新大陸への片道切符のように輝いて見えるらしい。
だが、この熱狂を「微笑ましい親子の光景」と片付けるには、私の心はあまりに疲弊している。
今の私は、地獄の週休1日という過酷な労働環境に身を置いている。たった一日の休みは、魂を回復させるための聖域だ。そこにモバイル端末の初期設定という、現代屈指の「煩わしい作業」が土足で踏み込んでくる。アカウントの紐付け、二段階認証、アプリの引継ぎ……。神経をすり減らすその工程を想像するだけで、深い溜息が漏れる。
しかし、私がこうして渋っているのには、実はもう一つの、より切実な理由がある。
先日、知人から聞いた戦慄のエピソードが頭を離れないのだ。
その知人は、スマホに没頭しすぎる娘を案じて、一時的に端末を取り上げたのだという。すると、あろうことか娘からの激しい反撃に遭い、格闘の末に腕を脱臼させられたというのだ。嘘のような本当の話である。
思春期の、あるいはその入り口に立つ少女にとって、デジタルデバイスはもはや体の一部であり、魂の延長線上のデバイスなのだ。それを取り上げる、あるいは「与えるのを遅らせる」という行為は、彼女たちにとって生存を脅かす重大な敵対行為と見なされるのかもしれない。
「渋々でも、時間をつくらなきゃいけないのか……」
そう自問自答しながら、知人の脱臼した腕を思い浮かべる。今の娘の、あの「期待に満ちた(しかし一歩間違えれば狂気に転じそうな)眼差し」を見ていると、設定を先延ばしにすることは、私の肉体の安全をも脅かしかねないリスクに思えてくる。
もしかすると、初期設定を完遂することこそが、この一触即発の緊張状態から私が生還するための唯一の道なのかもしれない。
今度の日曜日。私は貴重な休日を返上し、デジタルな設定画面と格闘することになるだろう。それが、娘の笑顔を守るためなのか、あるいは自分の関節を守るためなのかは、もはや判然としないのだが。