毎日、仕事が終わるとそのまま台所に立つ。重い身体を無理やり動かしながら、会社の昼休みにYouTubeで勉強したレシピを再現する。子供も大人も一緒に美味しく食べられるメニューを考え、少しでも喜んでもらいたい一心でフライパンを振る。
自分は「心の小さい男かもしれない」と自問自答することがある。
妻は現在、学校の課題で忙しい日々を送っている。だからこそ、自分ができる家事や夕食の準備は、率先して引き受けようと決めた。それは自ら選んだ「バックアップ」の覚悟だったはずだ。
しかし、いざ食卓を囲む時間になると、どうしても感情がざわついてしまう。
料理が完成し、「Let’s eat!」と声をかける。子供たちはすぐに食卓につき、美味しそうに食べてくれる。その姿を見るのは何よりの救いだ。しかし、妻の姿はそこにはない。課題を優先し、夕飯の席には戻ってこないか、あるいは冷めた料理を後から淡々と口に運ぶだけだ。
「温かいものを、一番美味しい瞬間に一緒に食べてほしい」
ただそれだけの願いが、日々の忙しさの中で後回しにされていく。そうした光景を何度も繰り返すうちに、最初は湧き上がっていた応援する気持ちが、少しずつ「イライラ」という澱(おり)に変わっていくのを感じる。
もちろん、彼女が努力しているのは理解している。自分だって、彼女が夢に向かって頑張る姿を否定したいわけではない。しかし、こちらの努力や「一緒に過ごしたい」という想いが、課題という壁に阻まれて届かないと感じると、どうしようもなく孤独を感じるのだ。
「言えば揉める」ということも分かっている。だからこそ、言葉を飲み込み、飲み込み、その結果として自分の心の中でイライラが煮詰まっていく。
おそらくこれは、料理そのものへの不満ではない。自分が家族のために捧げている時間や労力が、「当たり前の風景」として風景の一部になってしまい、感謝や共有の機会が失われていることへの寂しさなのだと思う。
家族を支えるということは、自分の感情を押し殺して黙々と役割をこなすことだけではないはずだ。時には弱音を吐き、時には「美味しいね」という言葉を掛け合い、お互いの存在を確認し合う。そんな対話こそが、本当の意味での「バックアップ」なのかもしれない。
今はまだ、このもどかしさをどう伝えればいいのか、答えは出ていない。ただ、毎日重い腰を上げて台所に立つ自分が、少しでも報われる方法がどこかにあるはずだと信じたい。
家族のために尽くすことは、尊いことだ。けれど、その尊い行動を続けていくためには、自分自身が「大切にされている」という実感もまた、同じくらい必要なのだから。