世間が三連休を謳歌する月曜日の朝。家族がまだ眠りについている静かな家を後にし、私は鉄と油の匂いが染み付いた作業服に袖を通す。重い身体を引きずりながら工場へと向かう足取りは、これから始まる過酷な時間を予感してか、一歩ごとに重さを増していく。
工場内に足を踏み入れれば、いつもと変わらぬ機械の駆動音と、冷え切ったコンクリートの床が私を迎え入れる。しかし、心は戦う前から完璧に折れていた。気持ちで完全に負けているのだ。コンベアから流れてくる部品を前にしても、仕事の処理能力は驚くほど低い。手元の狂いが許されない現場において、集中力が欠如している自覚がさらに焦りを呼び、思考は底なしのネガティブな沼へと沈んでいく。
そもそも、我が社の休日体系は、従業員に対してあまりに「サディスティック」だ。
世間が祝日(旗日)で沸く週、カレンダー通りに休めることなどまずない。それどころか、旗日が入る週にはあえて土曜日を出勤日に設定し、年間で何度も「週6日勤務」のシフトを組んでくる。薄暗い工場内でラインを回し続けていると、曜日感覚すら麻痺してくる。
そこに、従業員一人ひとりの生活や体調を慮る姿勢は微塵もない。経営陣からすれば、私たちは機械の一部に過ぎないのだろう。さらに理不尽なのは、その休日設定の基準だ。現場がこれほど疲弊している一方で、突如として「謎の連休」が差し込まれることがある。現場の生産計画を狂わせてまで設定されたその休みの裏側には、「経営陣が慰安旅行に行くから」という、昭和の残滓のような身勝手な理由が隠されていたりする。
昨今のニュースで耳にする「働き方改革」という言葉。それは一体、どこの国の、どの職種に向けられた言葉なのだろうか。油にまみれ、騒音に包まれたこの工場内には、そんな洗練された概念などどこにも存在しない。法律がどう変わろうと、この閉鎖的な組織の中では、経営陣の意向こそが唯一の法なのだ。
重い安全靴を引きずり、また一つ製品を手に取る。ネガティブな感情が頭を支配し、明日への希望すら見いだせない。ただ淡々と、終わりの見えないラインの流れに身を任せるしかない自分に、深い溜息が漏れる。