仕事がないのも困りものですが、今月はまさに「繁忙期」という言葉に呑み込まれています。

普段は月40時間ほどの残業。1日2時間の超過勤務、休憩を含めれば11時間。それだけでも十分、会社という場所に縛られているはずでした。 ところが今月は月60時間のペース。1日の残業は3時間に及び、拘束時間はついに12時間。時計の針がちょうど一周する時間を、私は会社で過ごしています。

「たった1時間の差」かもしれません。 けれど、その1時間が、驚くほど容赦なく心を削っていくのです。 拘束されている間の時間は果てしなく長く、仕事に生きがいを感じ、それを愛せる人が心底羨ましくなります。自分もそんな風になれたなら、どれほど救われたでしょうか。

対照的に、家に帰れば時間は倍速で過ぎ去っていきます。 溜まった疲れが、わずかな自由時間を邪魔するのです。ふと気を抜けば強烈な眠気が襲い、子供の相手も、妻との会話も、どこか上の空。頼まれごとは忘れ、約束すら記憶からこぼれ落ちてしまう。 疲れ果てて風呂に入る気力すら湧かない夜、私は「家長として、いや、人として失格ではないか」と自責の念に駆られます。

週末になっても心はささくれたままで、身体に澱(おり)のように溜まった疲れは抜けません。やるべきことも手に付かず、ただ「仕事と家」を往復するだけの、色彩を欠いた日々を繰り返しています。

かつては月80時間を超える残業にも耐えられたはずでした。 それなのに、今は60時間で悲鳴を上げている。身体はガタガタで、何より気持ちが追いついてきません。これを「老い」と呼ぶのでしょうか。それとも、心が限界を告げているのでしょうか。

残業代として収入が少し増えたところで、私はその分、自分を甘やかしてしまいます。 食べたいものを食べ、欲しいものを買う。それは生活に必要な投資ではなく、明らかに「浪費」に分類されるもの。疲れ果てた自分に「ご褒美」という名目で、際限なく注ぎ込んでしまうのです。 その結果、増えたはずの収入は泡のように消え、家計簿を見れば、通常月の方がよほど手元にお金が残っているという皮肉な現実が突きつけられます。

一体、自分は何のために、これほど長く働いているのか。 「働く」ということの難しさが、今、身に染みています。