自分の魂を削り、今の会社の惨状と自らの進退を綴った手紙を会社側に届けてから、しばらくの時が流れた。 私は、すぐにでも何らかの反応があるものと踏んでいた。今の組織のあり方にはもう耐えられない、これ以上の妥協ができないのであれば退社してやる——。そんな、剥き出しの刃のような感情を包み隠さずぶつけたのだ。

最初の数日間は、言いようのない緊張感の中にいた。大きな行動を起こしてしまったという、どこか「罪の意識」に近い震えと、一方で自分の正当性を信じる強気な心が激しくぶつかり合っていた。興奮で夜も満足に眠れないほどだった。 しかし、期待していた嵐は一向にやってこない。社内は何事もなかったかのように、淀んだ日常を繰り返していく。

時間がたつにつれて、熱を帯びていた私の心は、急速に冷え切っていった。 自分だけが熱くなり、人生を賭けたカードを切ったつもりでいたが、巨大で無機質な「会社組織」という怪物からすれば、私の叫びなど取るに足らない、チンケな雑音に過ぎなかったのではないか。 「ここで働き続けて、本当に大丈夫なのだろうか」 生活を守るという現実的な縛りさえ解き放ってしまえば、今すぐこの門をくぐり抜けて二度と戻らないのが最良の選択であることは、火を見るよりも明らかだった。結局のところ、パワハラやモラハラが骨の髄まで染み付いた古臭い組織が、一通の手紙で変わるはずなどなかったのだ。

そんな自問自答を繰り返しながら、重い足取りで現場を歩いていた時のことだ。 不意に、我が社の「独裁者」とすれ違った。彼こそが、この会社を力任せに歪ませてきた元凶であり、多くの従業員を涙させ、ごく一部の取り巻きにだけ恩恵を与えてきた「怪人」である。

避ける間もなかった。彼は立ち止まり、私に向けて声を放った。 「書いていただいた書面、穴が開くほど良く読ませていただきました。これから皆と話し合って色々決めていきたいと思います」

その言葉を聴いた瞬間、私は全身の感覚が研ぎ澄まされるのを感じた。一語一句、漏らさず記憶に刻みつける。彼は少しだけ口角を上げたかと思うと、去り際にこう言い捨てて、風のように立ち去った。

「頑張ってください!」

あまりに唐突で、あまりに無機質なエール。私はその場に立ち尽くし、遠ざかる彼の後ろ姿を見送ることしかできなかった。

サラリーマンが繰り出せる最後の切り札、すなわち「退職」というカードを切ったつもりだった。だが、手応えは全くと言っていいほど無かった。 これまでの歴史の中で、彼はわがまま放題に会社を操ってきた。彼の気まぐれ一つで、現場の仕組みも、人の運命も、いとも簡単に捻じ曲げられてきた。今回も、その「独裁的な力」が、せめて事態を打開する方向へ働いてくれるのではないかという、一縷の望みを抱いていた自分に気づく。

しかし、現実は非情だった。 あの「頑張ってください!」という言葉。そこに込められていたのは、改善への約束でも、私への慰留でもなかった。 「現状は何も変えない。だが、お前は勝手にその不満の中で、精一杯もがいて頑張れ」 そう突き放されたのだと、私は強く、強く実感した。 怪人は、やはり怪人だった。彼は自分の手を汚すことも、自らの非を認めることもない。ただ、下々の者が上げる悲鳴を「穴が開くほど眺める」ことを楽しみ、解決という名の丸投げを「頑張れ」という言葉に包んで返しただけなのだ。

頭の中で、あの言葉が何度も、何度もリフレインする。 何を頑張れというのか。 この理不尽な体制の中で、壊れゆく心を押し殺して働けというのか。それとも、届くはずのない声を上げ続ける虚しい努力を続けろというのか。

独裁者からの「お墨付き」を得たことで、現場のパワハラ課長たちの横暴が止まることはないだろう。むしろ、経営陣が「見て見ぬふり」をすることを確認した彼らは、さらに羽を伸ばすに違いない。 会社を変えようとした一石は、深い沼の底に沈み、波紋さえ残さなかった。

モヤモヤとした霧のような感情が、胸の奥に居座り続けている。 しかし、収穫がなかったわけではない。これで確信が持てた。この男、この組織には、もう何も期待してはいけないのだということを。 私の手元には、まだ「退職」というカードが残っている。奴らに渡してしまったわけではない。ただ、使うべきタイミングと使いどころを、もっと冷徹に見極める必要があるだけだ。

「頑張ってください」 その言葉を皮肉なエールとして受け流し、私は次の一手を静かに練り始める。クイックピックの当選を待ちながら、この泥沼から鮮やかに「フェイドアウト」するその日まで。