今日は、親として一つの大きな山を越えた一日だった。子供の歯の定期健診に始まり、皮膚科。子供を連れての病院のはしごは、待ち時間の長さや機嫌の波、移動のタイミングなど、常に「時間の壁」との戦いだ。それが今日は驚くほどスムーズに運び、全ての予定を無事に完遂できた。心地よい疲労感とともに、パズルのピースが完璧にはまったような満足感に包まれていた。

しかし、その達成感の余白に、ふとした「迷い」が入り込む。きっかけは、病院の帰りに立ち寄ったコンビニだった。小学1年生の下の子が、お年玉を握りしめて「マインクラフトの課金がしたい」と言い出したのだ。

我が子のことながら、その熱量には驚かされる。学校の勉強となると、鉛筆を持つ手も重たげなのに、ゲームのこと、課金の種類、導入の仕方の話になれば、目を見張るほどの吸収力を見せる。この成長スピードが、少しでも漢字や計算に向いてくれれば……と苦笑いしてしまうのは、親の共通の悩みだろう。

「他には何もいらないから、どうしてもこれがいい!」「自分のお年玉で買うんだから!」 そう真っ直ぐな瞳で訴えられた時、私は反論する言葉を失ってしまった。自分でお金を管理し、優先順位をつけて「これが欲しい」と主張する。その姿勢自体は、一つの自立の芽生えのようにも見えたからだ。

結局、私はプリペイドカードを手に取るのを手伝い、帰宅後にコードを入力してやった。狂喜乱舞して画面に吸い込まれていく我が子の背中を見ながら、心の中に澱のように溜まるのは「これで良かったのか」という罪悪感だ。

まだ小学1年生。デジタルデータの「価値」を、どこまで理解しているのだろうか。一度手に入れたら最後、日常生活を疎かにするほど没頭してしまう未来も容易に想像できる。食事を呼ぶ声も届かず、宿題を後回しにし、画面の中の世界に没頭する姿。それを許してしまったのは、他ならぬ自分ではないのか。その「歯がゆさ」が胸を締め付ける。

しかし、こうも思う。今の時代、ゲームは単なる遊びではなく、彼らにとっての「共通言語」であり、マイクラに至っては「想像力の教室」でもある。親が必死に段取りを組んで病院を回った今日という日に、彼もまた彼なりに「絶対に手に入れたいもの」のために全力を尽くしたのだ。

親として正解を選び続けることは難しい。時には、子供の熱意に負けて、ルールを甘くしてしまうこともあるだろう。けれど、その後にこうして「これでいいのか」と自問自答することこそが、子供と真剣に向き合っている証拠ではないだろうか。

画面の中の冒険に夢中になる子供の横顔は、確かに輝いている。 今日の課金が、単なる「浪費」に終わるか、それとも「自分の意思で何かを手に入れた経験」になるかは、これからの対話次第なのだろう。没頭しすぎるなら、そこでまた一緒にルールを考えればいい。

病院を二軒も頑張ってハシゴした今日という日。子供も頑張った。私も頑張った。 今は、そんな自分たちを少しだけ肯定してあげたい。明日からはまた、宿題とゲームの時間のせめぎ合いが始まるだろう。けれど、今日手伝って入力したあの12桁のコードは、親子で一日を駆け抜けた「お疲れ様」のささやかな報酬だったのだと、今はそう思うことにしよう。